多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
NHK大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」が人気らしい。何度か観たが私の感性と少し違うので、通しては観ていない。
でも家族は、「こんなに歴史ファンだったのか?」と思う程、熱心に観ている。
私は信州佐久の生まれだが、佐久の武士達はそれなりに歴史の表舞台に登場しているようだ。
歴史年表や教科書に載る程ではないが、郷土史家の研究成果に接すると、何となく郷土愛がムズムズする。
もっとも私の一族は、関ヶ原の戦いに負けて、佐久に流れて来たとの伝承があるので、この時代はまだ郷土史の対象外である。
鎌倉時代に信濃国は源頼朝の知行国であり、また執権北条家との関わりが深い地域であった。
また御牧(朝廷直轄の牧場)が有り、良馬の生産地であることから、木曾義仲も京都に攻め入る前に、佐久に寄り戦闘に必要な馬を調達し、併せて佐久の武士達を徴用している。
時は流れて1333年鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都にて天皇新政(建武の中興)の政治を開始するも、武士達の領地欲を満たすことが出来ず2年で挫折する。
源氏の再興を願う足利尊氏が、新政府に反旗を翻した事も大きい。
この混乱の中、鎌倉幕府滅亡時に、北条高時の遺児時高をかくまって育てていた諏訪氏が、時高を奉じて佐久の滋野一族と共に、北条の残党を巻き込んで鎌倉に攻め入った。
当時鎌倉を守っていた足利直義は、攻撃を抗し切れずに逃走し、諏訪、滋野、北条の残党連合軍は鎌倉を奪った。(中先代の乱)
ところが足利尊氏が直義応援のために鎌倉に入ると、
形勢は直ぐに逆転して、連合軍は二十日天下で終わってしまう。
しかも鎌倉で戦っている間に、留守にした国元が反北条方からの攻撃を受けて、滋野一族の望月城は陥落する。
史実として文書に残っているのは以上だが、領主や族長に従った下級武士の多くが鎌倉で死に、生き残った者も、敵に攻め入られた佐久の領地に帰えることも出来ず、露頭に迷ったことであろう。