多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
また増上寺山内観智院所属の僧侶でもあります。
『忠臣蔵』の季節である。
「おかずに困ったら豆腐を出せ、外題に困ったら忠臣蔵を出せ」は、落語『忠臣蔵』で語られる、春風亭柳昇さんの言葉である。
日本人は大好きなんです、『忠臣蔵』が。私もです。
『忠』『義』『滅びの美学』『仇討ち』等々の、いずれの心性をもって溜飲を下げるかは、人それぞれだ。
史実的には『赤穂事件』となるが、証明されている事実関係は少ないようだ。
その原因の一つとして、「浅野内匠頭の即日切腹と浅野家取り潰し」の即決処分がある。
喧嘩両成敗の時代に、双方の事情聴取をしないで、「直ぐに腹を切れー」だから、事件の詳しい顛末が不明のようだ。
その上浄瑠璃、歌舞伎、文楽などによって、大衆受けする内容に脚色されたので、現在私達が見聞きする忠臣蔵は、史実とかなり離れている可能性がある。
『仮名手本忠臣蔵』も幕府に気を使い、時を室町時代に移し、事件名、登場人物を変えて創作している。
刃傷の最大原因と言われる、浅野内匠頭遺恨理由の諸説を紹介すると(敬称略)、
①高家吉良が浅野に勅使の接待方法を教えなかった。
浅野は2回も接待経験があり、分かっていた説有り
② 赤穂は塩の生産地だが、吉良に製塩方法を聞かれたが教えず、吉良はその恨みから意地悪をした。
③浅野の美小姓を吉良が所望し断られ、その恨みから浅野に辛くあたった。
④増上寺塔頭寺院の畳交換事件。
勅使饗応役を吉良は前日まで知らせなかったので、浅野は接待塔頭寺院の畳入れ替えで大変苦労した。塔頭寺院は観智院である。
江戸時代観智院は増上寺の子院として、大名の休憩所や勅使の接待所として使われていた。
諸大名は、増上寺に到着すると、観智院などの塔頭寺院で着替えをした後、法要に参列した。
観智院には、浅野家の常休憩所であったこと、200畳の畳を一晩で入れ替えたことが、寺伝として伝わっている。
遺恨説以外に、『浅野内匠頭病気説』、『賄賂政治告発説』などもある。
いずれにしても、「一国一城の主人としての浅野内匠頭は、方法を違えた」と私には思えるが、皆さんは如何でしょうか。