「不言実行」は個人において徳になるが、政治の世界では危うい。
「え、選挙前にそんな事言ってた?」、「勝てば官軍だー」、何んてことが結構ある。
「大化改新は無かった」と言う学者がいる。
定説では645年、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を倒して権力を奪取。
「改新の詔」を発して、公地公民制、班田収授制、租庸調の税制をしいたことになっている。
だが公地公民制ひとつをとって見ても、各部族の収入を取り上げるわけで、絶大な軍事力と行政能力、天皇制イデオロギーの浸透なくしては困難である。
かつて伝飛鳥板蓋宮跡に何度も訪れたが、こんな狭あいな地から全国支配が可能だったろうか?、と感じたものだ。
詔の内容が全国に達するのは、壬申の乱を経て中央集権化がなった、701年大宝律令辺りからだろう。その頃政権の中枢にいたのは藤原不比等(光明皇后の父)で、鎌足の次男である。この時代も舎人親王(天武天皇の子)を中心に、大化改新についても記された、日本書記の編纂事業が継続さている。父鎌足が行なったクーデタに意味(新政策の施行)を持たせ、史実として残したい権力者、藤原不比等の気持ちを忖度した可能性はある。
「大化改新」が有ったか無かったかは、定義と其れによって何がどう変わったかによる。
信憑性に疑問符のつく、文献資料からの証明は至難である。
歴史を遡ること約60年。蘇我対物部の崇仏論争(丁末の乱)で、祭祀氏族中臣家は物部側について壊滅状態になった。こんな事も「復習クーデタのみ説」を補っている。
歴史不思議発見の一つに、古代天皇の年齢がある。初代神武天皇から16代仁徳天皇までの間に、100歳以上が12名もおられる。1番の長生きは11代垂仁天皇の140歳(古事記では153歳)である。
歴史上「神」名の天皇が3名(1代神武、10代崇神、15代応神)おいでだが、上記長命時代と重なる。古事記、日本書記編纂の過程で、何らかの意図が働いたと言う学者もいる。皆さんも推理してみませんか。歴史教科書を塗り替える、大発見があるかも知れません。
発見の折には多聞院にて、是非講演をお願いします。