多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
先日法務のため行田市で泊まった。
ホテルが「さきたま古墳」の隣りにあって、懐かしい場所でもある。
翌朝散歩に出るも、「何回も来ているから、古墳はいいか」と、公園隅の東屋でコーヒーを飲んでいた。
マスクを着用した青年が、ジョギングをしながら、東屋の隣りを走り抜ける。
「朝から元気だね。マスクで苦しくないのかねー」、と暫く観察していると、次に現れた時はマスクから鼻が出ている。
3回目に現れた時には、やはり苦しいのだろう、マスクを外している。
お陰で青年でなく、中年のオジサンである事が判明する。
「凄いなー、若くないのに、こんな広い公園を何周も、、、」と、登山とジョギングの楽しさを、全く理解出来ない私は驚きに変わる。
オジサンの頑張りに刺激されて、「じゃ俺も頑張って、久しぶりに稲荷山古墳位は見るか」と、とぼとぼ歩きだした。
さきたま古墳は行田市にあり、9基の古墳からなる
5世紀の古墳群で、特に有名なのは稲荷山古墳である。 「特に」は、私だけかも知れない。
1968年の発掘調査によって発見された鉄剣は、稲荷山古墳鉄剣と呼ばれて、他の副葬品と共に国宝に指定されている。
鉄剣には、115の金象嵌の文字が記されていて、文中に「獲加多支鹵王」の表記が見える。
ワカタケルオオキミと読み、第21代雄略天皇(倭の五王の1人、「武」に比定されている)を意味するところから、被葬者の中央との強い関係性=大和政権の統治範囲が示される=を表わす証拠にもなり得る。
「現在定説となっているような、大化の改新はなかった」派の私には、都合の悪い発見でもある。
5世紀に大和政権の力が、埼玉辺りまで及んでいたとすると、大化の改新が起きた7世紀には、公地公民制班田収授法等の政策を、地方に及ぼす力が、中央に有った可能性が出てくる。
又「大王」の呼称が、5世紀には既に使われていたことも判明し、副葬品は古代史研究の超一級資料とされている。
古墳に向かって歩きだしたら、ポツリポツリと朝の通り雨が来て、「やっぱり止めよ」と引返す。
「日和見」の典型である。
三年前のお盆にも法務で同じホテルに泊まった。
以前に書いたことであるが、朝チェックアウトの手続きをしていると、見知らぬおばあちゃんが近づいて、「ここで和尚さんに会うなんて、今日は善い日」と、お布施を差し出した。
後日多聞院にて、おばあちゃんの健康祈願と先祖代々の供養をさせて頂いた。
今日もし再会したらお名前をお聞きして、お話しがしたいと願ったが、叶わなかった。