多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
6月2I日は父の日であった。母の日に隠れがちで、何とも影の薄い父の日である。
「毎日が父の日」とも言われるが、「頑張って毎日働いてね」との意味だろう。
私は当日遠方に法務があり、朝5時には家を出てた。
運転中、作家で医師の鎌田實先生が出演する、ラジオ番組を聴いていたが、番組のタイトルが「日曜は頑張らない」で、思わず苦笑した。
番組内で父の日について、
毎年お父さんにプレゼントを送る人32%、一度も送ったことのない人22%、プレゼントより、子供達と一緒に過ごしたいお父さん75%。
「物は貰えなくても良いから、子供と時間を過ごしたい」
お父さん達は健気で可愛いのですよ。
私の父は、温厚、勤勉、貧乏耐性の持ち主で、母との諍いはほとんど無かった。
私の記憶では一度だけ、「お前の親類はひどい」と、母を強い口調でののしり、泣きながら火箸で竈(へっつい)を叩いたことがあった。
夫婦喧嘩の原因は、建築資金を借りた母の実家の集まりで、「随分と大きな家を建てたそうで」と言われたことにある。
養蚕に必要な広さを確保しただけなのに、借金で贅沢をしたと思われ、余程悔しかったのだろう。
家出して、新聞配達をしながら学問を志した父、沖縄戦で生き残った父。「一度は死んだ身」の思いは、人を逞しくするようだ。
沖縄戦で自分用の防空壕を掘らされ、完成した時上官より、「強制はしないが、負傷者のために壕を譲れる者は手を挙げてくれ」と、依頼がでたそうである。
仕方なく手を挙げたら、他の島への転戦を命じられて、命が助かったとのこと。
「一度沖縄に行きたい」と常々言っていたが、希望を叶えて上げられなかった。
苦学した父の割には、「勉強しろ」が無くて助かった。
この子達に学問の才能はないと、早くから見抜いていたのだろう。その分雑学の教授が多く、教えだすとくどいところがあって、時々閉口したものだ。
小学校の理科の時間に、「太陽は動くか?」の議論があり、私は動く派で少数であった。
帰宅後父に話すと、「絶対に動く」と譲らずに、東京大学天文台に質問の手紙をだす始末。
返信には「太陽は銀河系の中心を、高速で動いている(数字も記されていたが忘れた)」と記されていて、私はその手紙を先生の下宿先に届けることに。
私はただ、「太陽は毎日東から西に動いている」と、
考えただけである。
後日この一件が、先生達の研修会で報告されたようだが、結末は知らない。
「蚊のこぼす 涙の中の 浮島の
砂を拾って 千々に砕かん」
「世界で一番小さい歌だから覚えておけ」と、教えられた一首である。
忘れはしなかったが、役には立たなかった。笑
64歳で上顎癌を患った。もう長くないと分かった時、兄弟二人を病室に呼びつけて、「あの畑はお前、あの田んぼはお前」と指示し、最後に、「兄弟は仲良く」と遺言して、数日後に隠れた。
弟に、「親父の言いつけを守って、俺たちは仲良く生きたろうか?」とは、照れ臭くて聞けない。