多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
足の遅い秋もようやく訪れて、過ごしやすい季節となりましたね。
行楽を楽しむ気持ちはほぼ無い私だが、高校時代の悪友2人と、10月1日から一泊2日で会津を旅した。
彼とは高校入学時の席が前後で、「あの娘、可愛いね」「俺知り合いだから紹介するよ」で始まった、最初からやや浮ついた関係である。
3年前の、「京都奈良、修学旅行やり直しの旅」を契機に、「残り僅かな人生だ。時々旅をしようや」で、今日に至っている。
今回はコースを全て彼に任したら、会津になった。
以前から、「戊辰戦争における会津の悲劇」に興味が有ったので、「賛成」と即答し、郡山ー猪苗代ー鶴ヶ城ー飯盛山ー東山温泉ー大内宿ー白河を、レンタカーで回った。
司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、
「歴史のなかで、都市一つがこんな目に遭ったのは、会津若松しかない」と断じている。
象徴的に言われるのは、白虎隊の自決、城下武家屋敷婦女の自刀だが、戦争にはつきものである、両軍による略奪、暴行も頻繁に繰り返されている。
「会津の悲劇」は防げなかったのだろうか?。
こんな目に遭った側の、指導者の資質も問われる気がするのだ。
私はつい、江戸城無血開城と会津藩徹底抗戦を決めた、それぞれの指導者の差を比較してしまう。
最終的には降伏しているのだから、家臣、住民の犠牲が少なくてすむ、早い決断が有っても良かったのでは、、、と。
例えば藩主松平容保が京都所司代を辞した時、江戸城無血開城の時、奥羽越列潘同盟崩壊の時などなどである。
歴史学者ではない素人の感想である。
飯盛山の麓に駐車して、「さあ登るぞ」と意気込んで見たものの、長くて急な階段に挫折して、並行して設置されてる、動く歩道に料金を払って飛び乗る。}
白虎隊員の墓前に線香を備えて、読経と念仏を称えて菩提を弔う。
自決した17名の少年達の思いは、どんなだったろうと、我が身を同じ立場においてみるのだが、
深いため息が出るばかりであった。