多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
先日、NHK朝ドラ「 あんぱん 」をチラ見した。
毎日観ているわけでなく、たまたまテレビの前を通ったら「人はなぜ生まれて、なぜ死んでもゆくんですかね」の、台詞だけが耳に飛び込んできた。
皆さんはどうお考えですか?。
しっかり受け止めて考える人もいれば、意識的に避ける人もいる。
人間として生まれた以上は、大小深浅の差はあるが、この問いを誰も避けて通れない。
思い起こせば、私は小学校高学年から、この問題と一緒に今日まで生きている。
「どうせ死んじゃうだから」が、この間に私が使い続けた『物差し』である。
「出世」、、、要らないなー。
「友人」、、、これは大事にしよう。ってな感じ。
山﨑弁栄上人は
「この世は、如来の世継ぎとなるための修行をする道場」とおっしゃっている。
「永遠の命を獲得するために生まれて来た」との言い換えが可能だ。
土屋観道上人は
「人格の向上を目指して、念仏精進をすべき」と、この世での在り方について説いている。
表題の「散る桜 残る桜も 散る桜」は、良寛さんの辞世の句と言われている。
一般的な解釈は、「限られた命だから、大事に生きよう」だが、私は別な意味も含んでいると考えている。
桜の花芽は、花が散ったあと直ぐに準備されるので、時間差はあれども、花々が潔く散ってくれないと、次の命が育たない。
私の体も、約1000年33代遡るだけで、85億9千万人の先祖を数えると言う。
かつて存在した85億9千万人が命を繋いで、今の私が在ると考えたら、「よし明日からも頑張って生きるぞ」ってことに。
5月10日、我家に5羽のツバメの雛が誕生して、親鳥も私も急に忙しくなった。
「なぜツバメに生まれてきたのか?」と尋ねたいが、鳥語が話せず残念である。
一日のほとんどを、野鳥と過ごしている弟は、話せるらしい。