多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です
皆さんは、川幅が日本一の場所をご存知でしょうか?。
知ったかぶっている私も、法務の途中で偶然発見しただけです。埼玉県鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川で、2537メートルあります。
両川岸には「川幅日本一」との、大きな看板が建てられている。
私が川を渡る時に何時も不思議に思うのは、河川敷きの中には畑も田んぼもあり、所々だが道路の両脇には住宅が有ることだ。
時々マスコミで、河川敷内の無許可の作物栽培や、ホームレスによる仮設住居が問題になってることを思いだす。まさかねー。?
もう昔のことだが、土地制度の変遷について興味を持ち、何冊かの本を読んだことがあった。
縄文・弥生時代の稲作から始まり、土地に私的所有権が発生する過程は、時の権力構造や政策と相まってとても面白い。
今も領土を巡って国と国が喧嘩をしているのだから、「人間って、変わんねえなー」って思うのだ。
さすがに縄文・弥生時代では未だ土地の私有がなくて、部族として持ち、首長の采配で米を作り、収穫は一括貯蔵しながら各家に配給していた。
645年大化の改新の基本理念は公地公民であり、そのために班田収授法を制定して、農民に口分田や畑地を支給して土地に縛りつけた。
この畑地を廻る政府の対応に、土地私有化の萌芽がある。
畑地は、農民の生活を支えるため(獲れた野菜は全て所有可)と、税としとの調(絹や漆など)の生産のために支給され、相続が出来て、手続きを経ると売買も可能であった。
口分田の税率は収穫量の3%でしたから決して高くは有りません。でも現代と違い生産性が低かったので、97%をもらっても農民は貧しかったと、山上憶良さんは言っています。
成人男子に二段(約720坪)を、成人女子には男子の3分の二の口分田を支給していたが、人工増加に伴い足りなくなった。
そのため743年には開墾地の私有を認める、『墾田永年私財法』を発した。これが決定的でしたね。
1200年ほど時代を飛び越えて、
第二次大戦後に似たことが起こりました。
大地主から小作人に土地を移し(農地解放)、更に食糧難対策として、開墾地の私有地化を積極的に進めた。
対象地は国有の山林原野で、私が現在家を所有す場所は、村の中心から5キロも離れた山間部で、昔し周辺が「開墾地」と呼ばれていたから、その名残りでしょう。
我が家の土地も、親父が開墾したものかも知れない。
冒頭に戻ります。
色々調べた結果、長い川幅のなかに住んでいる人達は、不法占拠している訳でなく、私有地と国有地(賃料を納める)の2種があるようだ。
元々あった集落が、下流の東京の人々を洪水から守るための工事(堤防の造成)が、明治から昭和にかけておこなわれ、その際に河川敷(堤防の内側)に組み込まれてしまった結果でした。
川幅の定義は、「左岸の堤防から右岸の堤防まで」、であるようだ。

















