お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
平成最後の花見とかで、世間は盛り上がっている。この原稿が投稿される4月1日は、東京の花見ごろのようだ。
桜の「開花宣言」をめぐる、巷の大騒ぎには驚いた。標本木の周りを、マスコミや一般の方々数百名が取巻き、気象庁の係官の調査を見守っている。
「開花数が4で、本日は開花宣言にいたりません」との声明に、「あーあ」と深いため息がもれる。ため息の理由が分からない。
「今年は長崎にやられた」って事なのだろうか。それとも賭けをしていて負けたとか。笑。
一枝内のことならまだしも、大木全体の開花数が4ではまだまだで、5になったら「開花だー」って、ニュースになるところが微笑ましい。
私は1輪咲いたら「開花宣言」で良いと思っている。
4と5の違いは僅差だが、0と1の差は、「咲いたか、咲かないか」で、甚大である。
「にわかの花好きは、花が咲いている間だけ」
と言われるが、私は楽しめればそれでも良いと思う。
本当は花後の一年間を丹精込めて世話をすると、翌年は「咲いたー」と万歳がでる。
兼好法師の徒然草 137段はとっても面白い。
「花は盛りに、月は隈なきもの見るものかな」と言っている。桜の花は満開だけではなく、月も満月だけを見て楽しむのは片手落ちと教える。
さしずめ、桜が満開を過ぎたら桜吹雪、次に葉桜を、結実したら口に噛み苦さを味わい、毛虫が発生したら来年の蕾の無事を願い、紅葉したら行く秋を、共に偲べとの意味だろうか。
一方同段中頃で、「身分のある人の花見」と「片田舎の人の花見」の違いを表し、わざとらしい風流振りや、大騒ぎする宴会に対して、冷たい視線を送っている
私の所属は間違いなく「片田舎の人」なので、ちょっと耳が痛いが、身の丈に合った花見の楽しみ方をせよ」と、解釈している。
曲水の宴なんかは、多分御法度だな。笑
今年は都合で花見が叶わないが、せめて生まれ故郷の城山の桜に、想いを馳せたいと思う。