お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です。
私は信州佐久の生まれだが、昔から8月1日は「墓参りの日」と決まっている。
朝早くから母親はお饅頭を蒸し、お団子を作り墓参りの準備をする。お饅頭と言っても、今和菓子屋で求めるのとは違い、餡子は少しでほとんどが厚い皮である。
ご先祖さまに献げる浄水は、ヤカンで水、お米、茄子などの野菜をコマ切れにしたものを合わせてつくる。冬風邪を引かないようにと、墓参の後皆んなでこの浄水を頂く。
水、花、線香は近親墓だけでなく、墓域中全ての石塔に御供する。
我が家の墓地は、村を見下ろす小高い山の中腹にある。山道はかなり急で、大雨の後は川原状態となった石コロの上を歩く。
墓参りは同じ村に住む、父方の兄妹三家合同で行うので、子供達にとってはお盆と並ぶ楽しみな行事である。はしゃぎながら我先と急坂を登り、駆け下りたものである。
親達が、「お盆にはおいでないしゃ」と墓前で呟くものだから、8月1日の墓参りを、お盆に繋がる一連の行事と長いこと考えていたが、実は洪水の犠牲者に対する追善供養であった。
1742年(寛保2年)、台風の影響を受けて、7月27日から始まった豪雨は止まず、8月1日、2日に至って、千曲川及び支流が氾濫して未曾有の被害が発生した。田畑の被害は言うに及ばず、亡くなられた方2800名以上、上畑村などは一村全てが流されてしまった。壬戌年に起きたので「戌の満水」と呼ばれている。
佐久地方の「8月1日墓参り」の行事が、為政者によって、「追善供養日」として達せられたものかは定かでない。
しかし2800名以上の犠牲者のご遺族が、祥月命日に墓参をしたら、自然地方一帯の行事とならざるを得ない。276年経った今も一族によっては、墓前にて犠牲者やご先祖さまと食事を共にして、供養の酒を交している。
残念な事に、「8月1日墓参り」の歴史的意味が、人々の間で薄れかけている。
政治行政に、水を治めて住民の命を守る責任があることは当然だが、私達も身近に起きた被害の事実を伝え残して、自己防衛することも急務である。
私の生家も前に中沢川、後ろには大池と呼ばれる溜池があり、危険と隣り合わせで暮らしている。
小さい頃「川には行くなよ️」と、大雨の日は必ず親父に念を押されていた。
西日本豪雨物故者諸精霊
戌の満水物故者諸精霊 追善追福増上菩提
合掌 龍誉正俊