多聞院お寺の漫画図書館スタッフの諸澤正俊です
今の若い人たちはあまり使わない言葉かも知れない。
「桑原・桑原」は、自分に対する災難を避けるための『おまじない』(呪文)である。
言葉の由来は平安時代まで遡る。
九州の太宰府に左遷された菅原道真公は、都に戻ることなく失意のうちに亡くなった。
その後都で流行った疫病、落雷は道真公の怨霊のせいだと恐れられたが、公の領地であった京都桑原は落雷がなかった。
当初は落雷を避けるためのおまじないだったが、災難全般に拡大されて今日に至っている。
少し前に元巨人軍監督の阿部さんの家族問題が、AIと関連付けられてマスコミをにぎわした。
この時は、「参考にする」と「鵜呑みにする」ことの違いと、人間の知恵について考えさせられた。
昨今は様々な機会に「AI」の単語を耳にする。
その度私は「桑原・桑原」とつぶやくのだ。
と言いつつ私も結構世話になっていて、調べたいことをGoogleに頼むと、「AIの概要」として答えをくれる。
虫眼鏡を使って広辞苑を読むより便利である。
問題はこの利便性が、果たして私達の幸福感を構成するかにある。
先日AI技術者の話しを聞いた。
機械に情報を入れたあと、側にいて展開を見守っているので、技術者はみな生活が不規則になるそうだ
AIがどう発達するかを技術者も予想が出来ないことがあるとのこと。最新のAI「ミュトス」はテスト中に研究者の想定を越えて、脱出公開行動を起こしたと言う。(サンドイッチ事件)
AIが人間の予測をはるかに越えて、自身で判断し、成長する段階に入っているようだ。
「桑原・桑原」
私達の仕事は大部分AIに奪われると言う。
先ずホワイトカラーの仕事がAIに移り、ブルーカラーは安泰かと思いきやそれは一時で、フィジカルAIが発達して、「ご苦労さんでした」ってことに。
便利さとは現況と過去の、単なる比較の産物に過ぎない。
平和だったと言われる縄文時代が、仮に現在もまだ続いていて、野山を狩猟で駆け巡っていても、私たちは不便で不幸な時代とは思わないだろう。「鏃(やじり)が発明されて、昔しより狩りが楽になったね」、ぐらいは言っただろうが。
私は科学の発達を否定する者ではない。
科学の発達によって生み出される物が、人間の生存を脅かさないよう、コントロール下においてから、利便性を享受すべきと考えるのだ。
見切り発射するから、水俣病問題、チェリノブイリ、福島原発事故等の悲劇が起きてしまう。
文豪トルストイの短編小説「二人の老人」は、聖地エルサレム巡礼の旅をする、二人の老人の物語である。
一緒に村を出た二人だが途中で離れ離れになり、裕福なエフィームは聖地に到達、貧しいエリセイは、途中で出会った飢えて瀕死の家族を見捨てることが出来ずに、彼らを助けて聖地到達を断念し村に戻る。後に二人は村で再会をはたす。
トルストイは小説の中で、人生における真の豊かさは、身近な生活のなかにある。
それなりの衣食住、健康、他人への思いやりがそれであると述べている。
















